IDOLISSUES

アイドルを語り尽くせ

紅白の「欅坂46」残酷ショーを見て最終的に自分の浅はかさに辿り着いた話

    既にいろんなところで話題になっているけど、2017年紅白の欅坂46「不協和音」のステージがとにかく残酷だった。SMAP解散にコメントした総理大臣なら年頭の記者会見で何か言うのでは、と期待したくなるレベルだった。

 1回目の欅坂46単独ステージでは平手友梨奈が最後に不敵な笑みを浮かべた。

     f:id:idolissues01:20180104181454j:plain

 これ、絶対2018年の早いタイミングでQuick Japanあたりが記事にすると思う。この大胆不敵な笑みはJ-POP史に残る。欅坂46に通底している「大人への反抗」が現れていた。見たか、秋元康、素晴らしいショーをやったぞ、見たか、これが欅坂46だ、と一瞬の笑みだけで言った気がした。

 

 そして、2回目の内村光良との共演。「不協和音」2回目。年末も長尺歌番組や年越しフェスCOUNTDOWN JAPANに出演し、超ハードスケジュールの中で、文字通り満身創痍だったのだ。

  f:id:idolissues01:20180104181716j:plain

 涙が止まらなくなってしまった。全身全霊、命を削ったパフォーマンスなんて安い言葉当てはまらない。自分が平手友梨奈の親だったら速攻電話かけて、安否確認していただろうし、欅坂46のファンだったら号泣して年越せないと思う。後に過呼吸であり、命に別条は無いと発表されたけど、欅坂46を知らない視聴者だって心配になったはずだ。

 このステージの後、欅坂46の凄さって何だろうと考えてしまった。今のところ出ている結論は「最終的にファンである自分自身と向き合うからではないか」と思った。坂道グループのアイドルとしてデビューしたけれども、アーティストとして扱われロックに分類されることもある欅坂46。だけどアーティストってなんだろう。アーテイストの定義ってなんだろう。ロックってなんだろう。今まで自分が聞いてきた音楽ってなんだろう。15歳の少女が青春を投げ打って、ここまでボロボロになって表現したいことってなんだろう。それをただ見ているだけの自分ってなんだろう。

 倒れるまで追い込む、というのは48&46系列で通底したテーマだと思う。Documentary of AKB48でも過呼吸になる前田敦子がいたし、Documentary of 乃木坂46でも生駒里奈の泣きじゃくる様子が入っていた。ファンはそれを見て「助けたい!」「俺が推さなきゃ!」となるけど、結局は見ているしかないのだ。

 私自身、かつては48&46系列は秋元康の手のひらで転がされるかわいそうなアイドルだと思っていた。だけど手のひらで転がされているのはアイドルだけでなく、ファンである自分なのではないだろうかと思い始めた。欅坂46も結局、反抗に繋がらず、大人そのものである秋元康の高笑いで終わってしまうのではないだろうか。

 「サイレントマジョリティ」は「君は君らしく生きていく自由があるんだ」と歌ったけれど結局は反抗なんて出来ないのだ。欅坂46の「欅」は21画で、三位一体ならぬ21人一体とは言うけれど、バラバラになっていくかもしれない。NHK「SONGS」で平手友梨奈は「5年後は結婚しているかもしれない」と言っていたけど、5年後誰もいなくなり欅坂46は影も形もないかもしれない。乃木坂46も48系列も誰もいないかもしれない。つまりは、プロデューサー秋元康たちほんの一握りの大人たちがうまい汁を吸うだけなのだ。いや違うかもしれない。ボロボロになった先にある「解脱」を彼女たちに見せたいのかもしれない。ファンにも「これがプロデューサー秋元康のショーだ!」と見せたいのかもしれない。

 

 気が付くと、考えれば考えるほど堂々巡りしていた。「サイレントマジョリティ」は大人たちに管理されている少女たちが抵抗するから意味のある歌なのではないか。抵抗しているように見えるだけではないか。平手友梨奈の笑みに別に意味なんてないのではないだろうか。結局どこにも意味なんてないのかもしれない。

 

 欅坂46はロックだ!パンクだ!と叫んでみても、自分は何も知らないのだ、と浅はかさに気付かされるのであった。